宇治山田高校時代の私(左)。体育祭は大好きでしたが、かけっこは苦手でした。
母の実家は農作業で立ち働く大家族。

夕暮れ、一日の仕事を終えた叔父が、愛馬の労をねぎらいながら、川へ水浴びに向かう姿を見るのが、わたしは好きでした。

汗を流して、みんながきびきびと働くことの喜び、誇らしさを、肌身で感じた少女時代でした。

『働く人たちこそ幸せでなければ。この人たちを、決して悲しませてはいけない、裏切ってはいけない』とのわたしの原点は、このとき培われました。






学童保育の指導員時代です。1年生から6年生まで当時50人ほどの子どもたちがいました。キャンプでの写真です。
宇治山田高校を卒業して昼間働き、日本福祉大学の夜間で学びました。恵まれない子供たちのために、もっともっと役立ちたいと願ったからです。

学童保育の指導員になりました。一年生から六年生まで、いわば分教場の先生です。みんなが力をあ集めたキャンプ、運動会、お祭りやバザーにとりくみました。

母の日、子どもたちが、ストーリーも絵も配役も、すべて決めて演じた紙芝居。見守る父母の頬を涙がつたいました。それは『朝日新聞」でもとりあげられ、話題を呼びました。

子どもたちのの生き生きした笑顔や輝く瞳、今も思い浮かびます。いじめや胸の痛む報道に接するたび、どの子もみな、伸びやかに、すくすくと、育つように願わずにはいられません。






恋愛時代の彼と。デートはもっぱら徴古館。私はおめかししているのに、健はこの日も下駄履きでやってきました。
幼いころ見た戦争映画は、平和の大切さをわたしの胸に刻みました。

高校の授業で、戦後間もない私たち世代の名前が、和して仲良くと和子、食べ物にも愛にも恵まれるようにと恵子、幸せを呼ぶ子にと幸子…こんな名前が全国に広がったと学びました。

ベトナム戦争を通して、平和の問題を自分の生き方として向き合った青春時代でした。 青年運動を通して、働く人たちこそ主人公、平和と民主主義をなににもまして尊ぶ日本共産党と出会いました。その党の機関紙「赤旗新聞」の仕事をする下駄履きの、腰に手ぬぐいをぶら下げた、やや風変わりな青年(今の夫)と出会うこともできました。20歳の春のことでした。

あれから35年。いま私は、この道を選択したことを、心から誇りに思っています。






私の原点の写真です。伊勢からやってきて、市会議員選挙に初め出たにもかかわらず、鳥羽のみなさんの温かいご声援。いくど涙したかわかりません。
1994年、鳥羽へ来ました。市会議員の選挙に出るためでした。鳥羽では大先輩の浜口和平さん以後、残念ながら共産党の議席が12年間途絶えていました。

右も左もわからない新参者の私を、鳥羽のみなさんは温かく迎えてくださいました。選挙の2ヶ月前から、朝の出勤時、道に立ってご挨拶しました。町の辻つじで、一生懸命に訴えました(右の写真です)。

選挙では4つのモットーをかかげました。

1.「市民の願い第1」を貫きます。声をかけていただいたら、どこへでも伺います。市民に役立つ議員として、力の限りがんばります。

2.議会のありのままを報告します。あおぞら報告会で、すべての町へでかけます。みなさんのご意見をお聞きし、議会と市政へ反映します。

3.税金の無駄遣いに目を光らせます。しっかり勉強して市政改革、暮らし応援、雇用と産業振興、防災施策を提案します。

4.不正、利権にいっさいくみしません。どんな圧力にも負けません。タブーや無法にも屈しません。議会内外で正義を守り、道理を通します。

この初心は、いまでもわたしのバックボーンです。

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